一人称(主語)が消えていく社会

社会生活を営んでいると、主語がない社会になって
いると感じることが間々あります。
主語がないとは、別な言い方をすれば、本来責任を
取るべき人が責任を取らない社会といえます。

なにか責任に関することがあれば、他人(他社)の
責任にするような社会です。
しかも、社会的に強者である大企業側にこのような
タイプの人がいたり、あるいは責任を取らない仕組
みを構築していたりしています。
政治や官僚の世界も同じでしょうか。

広く社会をながめれば、企業規模の大小にかかわら
ず、また、人は人それぞれなのだと思いますが、私
の身近なところで具体的に起こっているという狭い
前提で書いています。

話を聞いていて滑稽にみえてしまいます。
もっとも、話をしている本人は、そのことにまった
く気づいていません。

自分自身を振り返れば、今年、サポート機能付の車
に変えました。
自分の運転能力の低下を支えてもらい、他の人にけ
がなどの被害と損害を与えることを、できる範囲で
少なくしておく責任がある、と思うからです。
ネット環境のセキュリティ投資なども自分の被害と
損害、また、ネット環境を通して世の中に迷惑をか
けるリスクを少なくするためにおこなっています。
そこに自分の責任の所在があると、考えるからです。

私も多くの失敗をしてきましたが、可能な限り1人
称の立場で話をするように心がけてきました。

このような一人称が消えていく社会を作ってきたと
したら、まぎれもなく私たち人間です。
社会がサラリーマン化するとは、責任を取らない人
や企業を作り上げていくことかもわかりません。

このような社会ができあがると、余程のことがない
限り変わることができないのではないか、と危惧し
ています。
その本質は、すべての事態が他人ごとだからです。
そうならないことを願うばかりです。