仕事の主体(責任)は、どこか?

企業で仕事をしていくと、外部の方に依頼することがしばしば発
生します。
たとえば、昨日書きました弁護士や公認会計士、あるいは社会保
険労務士など多くの外部関係者がいます。

昨日の例をとれば、その主体(責任者)は私です。
企業で問題があるとしばしば専門家へ丸投げするケースが散見さ
れますが、専門家は企業内部の細かな活動実態は把握していませ
ん。
主体は、あくまで企業側(責任者)になります。

主体(責任者)が企業活動を的確に把握できていなければ、どの
ようにすばらしい専門家を集めても問題は解決しないでしょう。
主体なく問題解決を図ろうとする企業がありますが、問題の本質
を自らつかめていない企業(人間)では、本質的な解決など程遠
いでしょう。
悪意ある企業や行政などでは、むしろ本質を隠すために利用して
いることさへあるのかもわかりません。

すぐに第三者機関へ問題解決を依頼する企業や行政は、当事者意
識、いわば自ら招いたという自覚とその責任を明確にするとい一
人称の姿勢がなければなりません。

それは経営者だけではありません。
経営権の分担行使をしている管理職も同じです。
企業におけるすべての問題の責任は、自分(一人称)なのだとい
う自覚からしか、本質的問題の解決はありません。
最終的な責任は、自分がとるという姿勢でしょうか。

どんなに有能な弁護士や公認会計士がいたとしても。。。

一人称(主語)が消えていく社会

社会生活を営んでいると、主語がない社会になって
いると感じることが間々あります。
主語がないとは、別な言い方をすれば、本来責任を
取るべき人が責任を取らない社会といえます。

なにか責任に関することがあれば、他人(他社)の
責任にするような社会です。
しかも、社会的に強者である大企業側にこのような
タイプの人がいたり、あるいは責任を取らない仕組
みを構築していたりしています。
政治や官僚の世界も同じでしょうか。

広く社会をながめれば、企業規模の大小にかかわら
ず、また、人は人それぞれなのだと思いますが、私
の身近なところで具体的に起こっているという狭い
前提で書いています。

話を聞いていて滑稽にみえてしまいます。
もっとも、話をしている本人は、そのことにまった
く気づいていません。

自分自身を振り返れば、今年、サポート機能付の車
に変えました。
自分の運転能力の低下を支えてもらい、他の人にけ
がなどの被害と損害を与えることを、できる範囲で
少なくしておく責任がある、と思うからです。
ネット環境のセキュリティ投資なども自分の被害と
損害、また、ネット環境を通して世の中に迷惑をか
けるリスクを少なくするためにおこなっています。
そこに自分の責任の所在があると、考えるからです。

私も多くの失敗をしてきましたが、可能な限り1人
称の立場で話をするように心がけてきました。

このような一人称が消えていく社会を作ってきたと
したら、まぎれもなく私たち人間です。
社会がサラリーマン化するとは、責任を取らない人
や企業を作り上げていくことかもわかりません。

このような社会ができあがると、余程のことがない
限り変わることができないのではないか、と危惧し
ています。
その本質は、すべての事態が他人ごとだからです。
そうならないことを願うばかりです。