出世が面倒なタイプ

私は出世が面倒だ、と感じるタイプです。
その根源的理由になるものは、小学生時代にみた景色でしょうか。
成績がクラス最下位の私からみると、勉強ができる子は先生に褒
められ、クラスのみんなから注目される存在でした。
私はというと勉強はしないし、褒められることもありません。
その分、自分の時間と空間がもてたようです。
もっとも、時間も空間も遊びばかりなのですが。。。

中学時代も2年生までは、同じようなものだったでしょうか。
中学3年のとき成績があがって先生に褒められるようになりまし
たが、どこか冷めていました。
勉強の成績があがったのは友人のアドバイスのおかげであり、私
自身は遊びの延長のようなものでした。
問題が解けて面白いと、ゲームのようなものでしょうか。

このような経験は、企業へ入社すれば、常に冷めた目でまわりを
みることができました。
営業成績は、中位で目立ったことはしません。
ただ、仕事(営業)が面白くなってしまい企業にある全製品、ほ
とんど売れない製品まで販売したことから上司に褒められました
が、これも遊びの延長。

小学生時代の成績上位者や企業へ入社して営業成績がよかった人
たちが、その後、順調だったかといえば、残念ながらすくなから
ずそうではありませんでした。

私にとって会社における出世は、仕事のための出世、いわゆる会
社機能を構築するための昇進なので機能構築が終われば、さっさ
と辞めていくタイプです。
私にとっての出世とは、その時々で選択した企業における機能構
築のための手段でしかありません。

私は、幼いころに学んだことを大人になってもやっているだけか
もわかりません。
成長していないとも言えますが。。。

人間がみる景色は狭い

普段、人間がみている景色は、案外狭いと思います。
なにかあったとき、たとえばけがや病気などをすればよくわかり
ます。

今、少し腰を痛めていますが、それだけで洗面台がこれまでの距
離と違い、遠く離れてみえます。
こんなに蛇口や洗面台が小さくみえるのか、と感動すら覚えます。

日頃、それだけ腰に負担をかけて生きているのです。
何気ない日常とは、本当は、意識することなく生きているという
証なのです。

このような経験を通して人間というものは、ということを知る機
会になるでしょう。
人間とは、ひとつひとつの経験の積み上げから人間そのものを理
解していく生き物なのかもわかりません。