デジタル化で不正がなくなる?

コロナ感染症の影響を受けてデジタル化推進が
叫ばれているところですが、さて、デジタル化
で不正などが少なくなるのでしょう
か。
現実は、そう簡単ではないでしょう。
結論からいえば 、デジタル化であれ、紙による
処理にしろ、手順を踏んだ内部けん制システム
と内部監査システムのふたつの機能が必要です。
それでもデジタル化は不可逆的な流れですから、
推進していくこになるでしょう。

では、どこで問題が発生するかといえば、人間
が介在する部分です。
人間は、悪いことをやろうと思えば、あらゆる
ことができるようで、私には考えられないこと
をいとも簡単におこないます。
それだけの執念があれば、まともなことにエネ
ルギーを使えばと、思うのは私だけではないで
しょう。

デジタル化でも二段階認証が当たり前になって
いるとおり、不正をけん制するシステムの構築
とそれにかかる時間や手間は、デジタル化の流
れに反するものですが、リスク管理上、増える
ことはあっても減ることはないでしょう。

ましてデジタル化の象徴のようなインターネッ
トバンキングを企業が利用する場合、中小企業
では、担当者任せでおこなっているところもあ
りました。
驚くような光景です。
他方、大手企業でも数多くの不正がおこなわれ
ていますが、日常的な内部けん制(スマホでい
えば二段階認証のようなものですが)をおこな
い、さらに第三者であつ内部監査を徹底するこ
とが重要です。

これでも不正は、おこなわれるでしょう。
しかし、日常的な内部けん制と抜き打ち的な内
部監査でかなり防ぐことが可能となります。
また、仮に防ぐごとができなくともはやい段階
で不正を発見することが可能となります。

大体、担当者や外部の取引先と結託される不正
はなかなか発見されにくくなります。
担当者の異動が必要なのは、このような不祥事
の芽を摘み取るためでもあります。
事業収益が上がらない現状では、どこまで投資
できるか、という経営判断が必要なのかもわか
りません。

いずれにしても人間とは、複雑な生き物であり、
今日ように人間関係ギスギスしている時代こそ、
人間の原点に立ち返った経営が必要ではないで
しょうか。

企業をなんとなく成長させる経営者

私が在籍していた企業でそれほど大きくはありませ
んでしたが、その後、着実に成長している企業があ
ります。
この経営者、私はあることで尊敬しておりませんが、
私が想像していた以上に企業を成長させています。

私のような者の意見具申でもよく聞く方でした。
意見を取り入れてマネジメントバイアウトをしたり、
増資の提案をすれば、すぐに対応したりと、よく決
断し実行するタイプでした。

私が退社してからのことはまったくわかりませんが、
その後の様子をHPからみると、企業は間違いなく
成長しています。

私などがいなくなった後、入れ替わるように採用し
た人材の意見を取り入れていると、考えています。
それほどよく他人の意見に耳を傾ける方でした。
だからこそ、尊敬はできませんが、企業は成長して
いるのだと思います。

私が在籍した企業の中では、なかなかめずらしい経
営者だったと思います。
経営者のまわりにも良い人材が多かったように記憶
します。
おそらくですが、聞く耳をもたれる方には、よい人
が集うということでしょうか。
それでは、またいっしょに仕事をしたいか、と聞か
れれば、答えはNOなのですが。。。

一人称(主語)が消えていく社会

社会生活を営んでいると、主語がない社会になって
いると感じることが間々あります。
主語がないとは、別な言い方をすれば、本来責任を
取るべき人が責任を取らない社会といえます。

なにか責任に関することがあれば、他人(他社)の
責任にするような社会です。
しかも、社会的に強者である大企業側にこのような
タイプの人がいたり、あるいは責任を取らない仕組
みを構築していたりしています。
政治や官僚の世界も同じでしょうか。

広く社会をながめれば、企業規模の大小にかかわら
ず、また、人は人それぞれなのだと思いますが、私
の身近なところで具体的に起こっているという狭い
前提で書いています。

話を聞いていて滑稽にみえてしまいます。
もっとも、話をしている本人は、そのことにまった
く気づいていません。

自分自身を振り返れば、今年、サポート機能付の車
に変えました。
自分の運転能力の低下を支えてもらい、他の人にけ
がなどの被害と損害を与えることを、できる範囲で
少なくしておく責任がある、と思うからです。
ネット環境のセキュリティ投資なども自分の被害と
損害、また、ネット環境を通して世の中に迷惑をか
けるリスクを少なくするためにおこなっています。
そこに自分の責任の所在があると、考えるからです。

私も多くの失敗をしてきましたが、可能な限り1人
称の立場で話をするように心がけてきました。

このような一人称が消えていく社会を作ってきたと
したら、まぎれもなく私たち人間です。
社会がサラリーマン化するとは、責任を取らない人
や企業を作り上げていくことかもわかりません。

このような社会ができあがると、余程のことがない
限り変わることができないのではないか、と危惧し
ています。
その本質は、すべての事態が他人ごとだからです。
そうならないことを願うばかりです。

活力がある企業ない企業

企業には、活力があるところとないところがあります。
その実態をつかむのは、なかなかむずかしいものです。
理由は、管理能力が優れていても優れていなくとも、
活力がある企業があり、他方、その逆、活力がない企
業が存在するからです。

活力があるところに共通する要素は、社員が自由闊達
に仕事をしていることでしょうか。
管理能力が低い企業でも社員の能力が高く、身近な実
務に関していえば、他社を圧倒しているようでした。
組織の管理能力が高ければ、社員の能力の高さとの相
乗効果で、さらにレベルが高い活動になっていくよう
です。

「活力」とは、辞書によれば、「人間や組織が活発に
活動するための力」となっています。

一方、活力がない企業は、組織の管理能力が高くとも
社員がバラバラで一体感がなく、仕事のレベルが向上
していきません。
いろいろな施策をやろうという意欲が低く、高収益を
支えている仕組みに安住している状態とでもいえるで
しょうか。
とにかく活力がありません。

企業というところは、人間がつくるところだけにその
状況をつくっているのは、また、まぎれもなく人間そ
のものです。
特に、活力がない企業では、創業者に限らず、経営ト
ップに課題がありそうです。
しかし、社員に活力がなくとも高収益企業にいたって
は、その経営を批判することのむずかしさは並大抵で
はありません。

さて、答えはひとつではないでしょう。
みなさんも考えてみてください。

田植えも、刈り取りもはやい

この地では、4月29日前後に田植えがはじまり、5月3
日ごろには終了しています。
昔とちがい、大勢で田植えをする光景などまったくあ
りません。
だいたい、農家の方がひとりで田植え機を運転しなが
ら田植えをおこなっており、この当たりの田んぼひと
区画なら1時間もあれば終わってしまいます。

稲刈りは、8月下旬にはじまり、コンバインを使ってお
こないますから、こちらも2時間もあれば終了です。
私がみてきた田植えや稲刈りの景色とは、隔世の感が
あります。

農業的景色と工業的景色の違いでしょうか。

それでも田んぼで暮らす生き物たちにとって水田はな
くてはならいものでしょう。
田んぼの風情は、これから育っていく稲と生き物たち
をみていくなかで感じることができます。
毎年同じ景色をみているのですが、心のなかの原風景
を呼び覚ましてくれるから不思議です。

生き物たち同様、私にとっても、水田は心を穏やかに
してくれるものであり、なくてはならないものなので
す。

態度とリスク管理

どんなにリスク管理を徹底していても問題が発生することは
必ずあります。
人間がおこなうことですから絶対はありません。

日ごろからリスク管理を徹底している企業では、問題が起こ
ったとしても、自らの言葉で問題のありかや今後の改善点を
話せます。
必ず言葉とともに、その人の行動に誠実さがにじみ出るもの
です。

人間の態度には、人生の歩みが言葉とともに存在します。
このような振る舞いができる人が少なくなった社会でしょう
か。
自らの姿勢と態度は大丈夫か、と考えてしまう日々が続きま
す。

ちなみに、辞書に「態度」とは、「物事に対したときに感じ
たり考えたりしたことが、言葉・表情・動作などに現れたも
の」とあります。